その後

そんな時、大手商社をクビになった男が私にすりよってきた。これが、悪縁だった。彼は会社を作って、経費を無尽蔵に使うことしか考えていない。早稲田の政経は、こんなバカ、東大落ちの塊だ。当然、ナチュラリストアナキストの私と本質的に合うはずがない。私の専攻は植物学で、植物園の管理者になろうとも考えていた。ドカタは、その時のことだ。政経学部クロポトキン、もバクーニンも知らない。ましてやハンナアレントなんて、名前さえ知らない。早稲田という囲いの中でクズ商社を目指す。
 
64歳になって、原点に戻る。それがタクシーだった。今でも信頼してくれるクライアント、友人が、少数いるので、彼らの仕事は続ける。タクシーのいいところは、時間が自由に設定できることだ。寝ないのは、たぶん、大丈夫、24時間寝ないことも今でもある。そういう意味でもタクシーは、条件が合っている。
 
さらに私には年齢の割に重たい住宅ローンがある。売って仕舞えば、それなりの金額が残り、中古マンション程度は買えるが、妻は今の自宅への執着が強い。その気持ちもわからないことはない。自身の景気が良かったとき、マンションからスタートして、一戸建てを買い、さらに今の自宅を買った。買い替えの際、相当な金額(3000万円くらい)を無駄にしている。ただ、夫婦二人で5ldk駐車場3台、トイレが三つにキッチンが二つという今の自宅は、どう考えても過剰だ。長男もどうやら同居する気はなく、娘も近所にマンションを買ってしまっている。
 
コンサル仕事でもなんとかはなるが、安定性は欠ける。仕事が来る時はすごい勢いでくるが、あるタイミングで、仕事が来なくなると、基本契約をしている数社だけからの収入になってしまう。ギリギリでなんとかなるが、それもつらい。さらにコロナが拍車をかけた。実際のセミナーから、仕事につなげることが多かった営業スタイルが崩壊した。オンラインセミナーでは、コミュニケーションができない。
 
タクシーは、そうゆう恐れはあまりない。原則的に肉体労働なので、走っていれば、最低限の収入にはなる。月8日働いて、20万円は固い。うまくすればその倍以上、稼げる。その手の仕事に挑戦するのも年齢的に今が限界だろう。精神的にも同様、この年齢で新しいことを始めるのは、つらいものがある。来年はさらにつらくなる。
 
汲み取り便所の便器の中に、吸い込まれる夢を見た場合は、「吉夢」と考えることができます。

あなたは全方位的に運が付き、無敵に思えるほど、何をしてもうまく行きそうです。

あなたが進んだ道に、キラキラ光る道が出て、その道のわきに街が作られるような運気となっています。
 
私が、アパレル関係の仕事をしたきっかけになった尊敬する人物が、今はマンションの管理人をやっていることも、コンサル脱出のきっかけになったことは間違いない。高校生の時、地元のグリーンハウスという喫茶店に入り浸っており、その店のオーナーは、低学歴だと思われるが、アメリカに長く不法滞在して、「ベトナムに行くか?日本に帰るか?」と聞かれ、日本に強制送還された人物だった。その喫茶店に出入りしている妙にファッショナブルな人物がk氏だった。なぜか、オーナーを通じて、話すようになった。私は、高校時代、ほぼ、不登校で、毎日、図書館で哲学書を読んでいた。偉そうなことは、まったく考えていなかった。ただ、高校が気に入らなく、世の中を斜に見ていた、ということだ。
 
k氏は、その辺りの知識は深い人だった。たぶん、極めて勘のいい人だったのであろう。その人物にマルセルディシャンと稲垣足穂を読み込むことを勧められた。吉本隆明ではなく、三嶋でもなく、足穂だった。私は、読み込んだ。理解力と想像力はたぶん、人より優っている。足穂に没入して、完全に理解したとは言えないが、足穂の世界観に共感した。クロポトキンバクーニン辻潤もその頃、読んだ。
 
その人物は、いい時は、全国に6店舗を展開するアパ専門店の雇われオーナーだった。私は、その人物のファッション性と知性に惚れ込み、アルバイトを志願、多少、ハードルはあったが、無事、採用された。その後、その人物のもとでアルバイト三昧、いっときは、店長代理のような仕事もさせられた。
 
銀座にカージナルという店がある。古いカフェレストランだ。カージナルで、軽く食べて、帰宅するのが日常だった。大学には、もちろん、あまり行かない。アルバイトとフラフラ歩き、ばかりだった。卒業を控えた4年生の頃、アルバイトをしていた企業に幹部で誘われた。当時の初任給の2倍が提示された。そこで私のフラフラが、また、現れる。植物系の大学に行っていたので、一応は、その手の企業に就職するべきではないか?、その揺れの中で、教授が勧めてくれる会社があった。大学の成績は悪くなかった。それなりの企業だった。
 
あとで知るのだが、江戸時代の作庭家、小堀遠州の流れを引く会社だった。ただし、私は、地頭はファッション、それも相当、先端的なファッションに没入していた。土方仕事は、それなりに楽しく、職人さんにも可愛がられた。そこでまた悩む。このままでいいのか、試しに新聞広告の専門新聞社の試験を受けてみた。相当の倍率があったはずだが、無事、合格。ファッションジャーナリストとして、デビューした。
 
その後、雑誌に転職、マスコミの癖に馴染めず、コンサルに転職した。それからは順風満帆、上場企業の契約を次々とり年収、2000万円を軽く、超えた。
 
稼ぎ過ぎた反動で色々あり、固定費はでかくなるばかり、税務調査でとどめを刺された。
 
それでも再復帰、あるコンサルファームで、それなりに評価されて、商社上がりとコンサル会社を設立、ただ、共同経営はうまくいかない。案の定、2年で脱落、フリーランスコンサルでそれなりにやってきたが、ここへ来て、限界、を自分なりに迎えた。年齢は60歳をとうに超えている。引退してもいい歳だ。今年から年金も入る。私が住んでいる自宅は、景気が極めて良い時に買ったため、敷地は広い。部屋数も多い。駐車場も3台、無理すれば4台止まる。これを売り払って、借家、あるいは、妻と二人で暮らせるだけの中古マンションでも買えば、相当楽になる。とりあえず、その方針は妻の意見で、難しい。
 
私は、相続財産がまったく無かった。むしろ、マイナス、親父の入院費も葬式代も墓場も私が負担した。さらに親父は、彼の所為ではないが、自己破産しており、その手続きも私がやった。弁護士費用が払える状況では無かった。自己破産関係の書籍を読みまくり、妻はそれに付き合ってくれてきた。その妻の意向を無視することはできない。
 
タクシー業界の不思議
タクシー業界は、ドライバーが潜在的に不足している。したがって、入社は安易だ。独自のルールがありそうだ。社会の底辺の仕事、どこでも使い物にならない人間の最後に行き着く職業、それはある意味で正しい。年齢、学歴不問、条件は、免許証を持っていて、3年以上経っていることだけ、その割に収入は悪くない。研修で知り合った人物、研修が終わって、社内で知り合った人物、誰も個性的だ。私も含めて。
 
私は、原則、先生と呼ばれてきた。大学の非常勤講師、専門学校の常勤講師もやっていた。中小企業診断士に関しては、理論政策研修講師、実務実習講師の資格もある。
 
当然、タクシー業界では、そんなことは関係ない。まったくの素人として扱われる。私はいくつかの企業でceo もやっていたし、経営企画室長は、当たり前の肩書きだった。現在もタクシー会社より、はるかに大きい企業の経営企画、財務企画のお手伝いをしている。さらに私は、元左翼である。制服や高圧的態度は、許さない。それが、完全に通用しない。まるで馬鹿扱いをされる。
 
修行だ。私は、極端だが、誰にでもある浮き沈みだろう。とりあえず、プライドを捨てることからスタート、制服に身を包み、二種免許を取得、さらに社内研修。その費用はすべて、会社が出してくれる、という条件だったが、蓋を開けてみると、会社は、費用を実質貸し付けるだけだ。3年間勤務すると、その費用負担は、なくなるが、今の時代で法的にこの仕組みが許されるかどうか、甚だ疑問だ。言わば強制的なお礼奉公、その前に退職すると、借入金は40万円程度になり、自己負担しなければならない。