本職

事業再生実務の実際

 

破産のち快晴

某有名再生コンサルタント(私の友人)に再生を依頼したものの、有名コンサルタントのスタッフが業務を放置、その後、知り合いの不動産業者にセールアンドリースバック(数年後に買い戻すことを約束して物件を売却)して、しのぎ、妻名義の合同会社(金銭的事業譲渡を伴わない第二会社、法に基づかない第二会社)が事業を引き継ぐ形でそば店は継続した。実質的な経営者は、旧社長、第二会社を設立した時点での粗利益は、60%を切っていた。売上高は安定しているものの、おそば屋さん平均の粗利益率を大きく下回っていた。第一会社の借入金は、放置、サービサーに回った分は、交渉のうえ、減額で決着するも、保証協会融資分、滞納税金に関しては、取り立てが続いていた。いくつかの債権者からは、裁判に持ち込まれ「債務名義」(明らかに借入金があることの法的証明)を取られていた。自宅および店舗の名義は第三者に代わっているため、第一会社(有限会社)第二会社とも無資産状況、個人も当然無資産である。取り立ては、来るものの、「無いところからは取れない」原理原則で、時間がたつごとに、返済の催促は、落ち着いてくる。

ただし、売上高がそれなりにあるだけに消費税は必ず発生する。

粗利益の悪さから実質的に営業赤字、消費税の滞納は1000万円を超える水準まで膨らんでいた。

私は、有名コンサルタント(友人)のご縁から、ミラサポ(無料専門家派遣事業)を活用して、当該のおそば屋さんを訪問、メニュー構成を見て、一瞬で問題点を把握した。

メニューの問題は「寿司」にあった。おそば屋さんのランチに握りが付いてくる。夜メニューも同様、お酒のおともに刺身は定番、それも旬の魚が豊富に出てくる。

和食系の店には、どうやら階級がある。「寿司」は階級の上位である。また、職人がいて、仕入れさえできれば、簡単に寿司メニューは取り入れられる。寿司をやりたがる和食屋さんがとても多い。安易に寿司を取り込み、失敗する和食店も多くある。

海沿い、魚市場近くの立地ならともかく内陸でいい魚を仕入れるためにはそれなりのコストがかかる。ましてや、旬の魚を選ぶとすると、粗利益をいじめるばかりだ。

ミラサポの初日に断言した。「たかが、そば屋が寿司なんか、やめてしまえ」、その店に来る顧客は、そばを食べに来るのであり、寿司が食べたかったら、寿司屋にいくか、回転寿司でも最近はそれなりにおいしい。

寿司職人を雇い、内陸の市場に通い、高い食材を仕入れる。握りで、余った寿司ネタは、夜の酒のお供となる。刺身盛り合わせ、それも仕入れ値は無視だ。原価が上がって当然の構造にあった。

寿司をメニューから追放することで、粗利は10ポイント上がった。寿司の代わりにランチには、混ぜご飯の握りをつけることにした。結果、顧客は全く減らなかった。誰もそば屋に寿司など求めていなかった。

寿司にかけていたエネルギーを本業のそばにかけることで、セットメニューは充実し、それまでも評判が良かった親子丼は、さらに売り上げを伸ばした。

ここからは、仕上げだ。旧知の弁護士と相談、旧会社、旧社長ともども、自己破産を選んだ。

自己破産には、誰しも抵抗がある。だが、旧会社社長、実質的なオーナーは、粗利の向上に気をよくしていることもあり、自己破産に踏み切った。わけの分からない債務を引きずっていると、どんなに仕事に集中しても「後ろ髪」を引かれている思いは残る。ましてや、奥さんが社長とはいえ、第二会社は「名寄せ」(金融機関はリスクヘッジのため、配偶者の債務状況も調べる)されるため、借入金はできない。

身内(配偶者)が自己破産すると、10年間は借入ができない、5年間は借り入れができない、という誤った常識が存在する。法的には、破産・免責になった以降、なんの問題もないはずだ。ましてや粗利益、営業利益ともに業績は回復している。金融機関にもよるが、このケースの場合、1年で、通常に戻った。

保証協会とは、連帯保証人(旧社長の父親・90歳)の関係で、多少すったもんだはあったものの、連帯保証債務をはるかに下回る数十万円の支払いで、決着がついた。日本政策公庫に関しては、特に問題なく、妻名義の会社が融資をうけることができた。

融資を受けて、店舗を買い戻し、自宅も買い戻した。さらに滞納消費税も支払った。コロナにもかかわらず、売り上げは順調に伸びており、店舗を休業している期間、やむを得ず始めた半径1キロ以内の宅配が、全体売り上げの10%を占めるにいたっており、現在は、絶好調の売り上げだ。

次の戦略は、駅前に立ち食いソバ屋さんを出店することだ。

このケースは自力があったことが幸いしたが、ほんの少しの改善、自己破産による旧債務の整理が、事業の発展にとっていかに重要か、改めて認識した。

 

  • アパレル生地や

破産のち安心生活

テキスタイルコンバーター(テキスタイル商社)、オリジナルテキスタイルの開発と、優良仕入先の信頼を得て、一定の売上高を継続して上げていた。社長は営業のプロ、自宅兼本社は、静岡県だが、月に数回東京に出張、コミュニケーション能力の高さと心臓の強さ、細かい気配りから、仕入れ先にも得意先にも信頼されていた。

足を引っ張ったのが、オリジナルテキスタイル開発だった。一定の数量が、オリジナル開発のために求められる。顧客のニーズからオリジナル開発を実施するが、要望があった顧客に販売できるのは生産量の良くて30%、悪い時には10%程度しか売れない。アパレルは、激変する市場環境のなかで、一部を除いて、不景気が続いていた。2018年頃、有名ブランドは一定の顧客を持っており、最低限の売り上げをとることができたが、中途半端なポジションをとる多くのアパレルが、苦戦を強いられていた。従来なら、有名デザイナーに素材の一部を販売し、残りは、安価にさばく、というサイクルで何とか回っていた。

数年の間に売れ残りの在庫は膨らみ続けていく。

従業員の給与、オリジナル開発のために借りていた工場の賃料、住宅ローン、仕入れ債務、気が付くと通常の返済原資すら、事欠き、最後には、個人ローン、ノンバンクローンを借りこんで、その場しのぎをする状況に陥っていた。

私が手伝ったのは、取り立てがピークに達したころだった。初めて会ったときは、顔面蒼白、面談の途中にもぶるぶる震えていた。携帯電話が鳴るたびにびくっとする。債務の督促には当然、慣れていない。債権者に携帯番号を教えていた。

まず、携帯の電話番号を変えることをアドバイスした。取引先、友人には個別に新たな番号を伝えればいい。自宅にかかってくる電話に関しては留守番電話モードが一番だ。債権者が相手の場合、でなければいい。

一般的に取り立て電話にはピークがある。支払わなくなってから、2か月後にピークを迎え、それが、長いと半年程度続く。その後、電話、督促通知の回数は減り、裁判に持ち込まれるか、そのまま放置されるか、となる。まっとうな金融機関(保証協会)は、ほとんどの場合、裁判に持ち込む。約定に反して、支払いをしていないため、裁判は出席してもしなくても負けることは言うまでもない。裁判を行うことによって、債権者の取り立て担当者は、自らの業務を適正に遂行していることの社内的な証明になる。結果「債務名義」を取られ、時効が伸び(5年が10年に延びる)、さらに債務が確定的なものになる。

裁判後、和解というパターンもしばしばある。債権者は、債務名義を取ったうえで、月額極めて少額の支払いで、当面、乱暴なこと(差し押さえに象徴される)は、実施してこなくなる。ただし、少額返済では、遅延損害金も満たすことはできず、自動的に債務は、膨らみ続ける。

アパレルテキスタイル事業者のケースで問題となったのは、自宅の保全だった。社長は、離婚した娘の前夫との子供、4人を引き取っており、小学生から中学生の4人の家族のためには、一定の広さの住居が必要だった。一方で強みは人柄と営業力にあった。テキスタイル卸売の中堅企業(仕入れ先)からの信頼は厚く、独立した会社の形態だったが、その企業から未払い買掛金がありながらも、継続して仕入れが可能で、さらに販売コミッションの形で取引することも、認められていた。

自宅の問題さえ、片付けば、自己破産しても大丈夫である。仕入れ先だった中堅問屋社長と当該社長、私と三者面談することになった。そこでわかったのは当該社長に対する信頼が、思いのほか、厚いことだった。仕入れ先の社長も「自己破産」に反対ではなかった。その仕入れ先に買掛債務を自己破産後も支払うことを条件に、取引の継続の確約をとることができた。次は、自宅の保全である。自宅は、住宅ローンが残っていて、実質的には剰余価値はほとんどないが、住宅ローン以外の金融機関が2番抵当をつけていた。

そこで、多少、テクニカルに動く必要があった。離婚した娘はフィリピン人の男性と再婚しており、フィリピン人の男性は大手自動車メーカーの契約社員(工員)であった。契約社員のままでは、住宅ローンを組むことは難しい。そこで、当該社長と養子縁組をすることで、日本国籍を取得、契約社員の地位はそのままだが、ほぼ、期限のない準社員的な扱いになることができた。

そして、決断、当該社長は、自己破産の道を選んだ。当面は、狭い借家住まいであるが、私の計画には、次のステップも織り込み済みだった。自己破産しても継続して、仕事ができる確約は、仕入れ先との間でできている。当該社長の年収とフィリピン人の娘婿、娘の収入を合わせると1000万円を超え、十分、住宅ローンを支払うことができる。

候補の2世帯住宅を見つけ、自己破産1年経過したころに、地域の小さめの信用金庫を訪ねた。自己破産のことは、当然、いう必要はない。あくまでも日本国籍を取得した娘婿の名義で住宅ローンが組めるかどうかである。幸運なことに地域の信用金庫は、予想以上に親切に動いてくれた。金額もそれほど多くない金額(3000万円弱)だったため、娘婿の住宅ローンは比較的簡単に組むことができた。

今は、当該社長、奥様、娘の全夫の子供が2階に居住し、1階には、娘夫婦とその子供たち(2人)が暮らしている。

当該社長は、個人経営で変わらずにテキスタイルの販売を続けている。もちろん、この情勢の中で、豊かとはいえないが、家族全員が健全な生活を送ることが可能になった。

このケースの場合、得意先の社長の全面的なバックアップ、さらには、当該社長の性格が私のアドバイスに素直に従う賢明さを持っていたこと、家族との絆が自己破産をもろともしないほど、ゆるぎないものだったこと、などが、最後の安定を生んだ。

 

食品商社

相続と事業再生

埼玉の中核都市で、3代続く、小麦の卸売会社、先代の裁量から、小麦卸から、取り扱い品目の拡大を図って、食品卸全般にまで業域を広げている。先代は、90歳を超えて健在だ。3代目社長は、営業力こそあるものの、管理能力はまったくない。売れると思うと限度なく仕入れてしまう。得意先優先と言えばその通りだがその基準が少々ぶれている。馴染みの得意先から依頼があると、ミニマムロット関係なく、大胆に仕入れる。結果的に100個仕入れて、10個しか売れない、残りは在庫となる。従業員は、3代目社長が仕入れて、売れ残った商材の営業を強いられる。

在庫が残るのは、完全に社長の責任だ。売れ筋ならまだしも、他の得意先には、全く売れない商品が、倉庫にたまっていく。忙しさを理由に実態棚卸は、行われていない。従業員によると社長が仕入れて、賞味期限、消費期限を過ぎた商品が、倉庫にあふれている。

私が、手伝いに入る前、無計画な仕入れと在庫管理から借入金は限界まで、膨らんでいた。売上高1億7千万円(粗利益率16%)に対して、借入金は1億円、保証協会付き融資が6000万円、先代の名義の事務所土地を担保にした融資が2000万円、親族からの借入金が2000万円だ。

3代目社長は78歳、そろそろ、小型トラックを運転して、得意先回りをすることが、体力的に難しくなっている。

先代は、初代から引き継いだ小麦卸の権利と地域密着した営業姿勢で、それなりに資産を残していた。本社土地、中型トラック駐車場、そのほか、敷地内にアパート一棟が、ほぼ無担保で残っている。

90歳を超えた先代は、その年齢から、いつ相続が起きても不思議がない。現状の借入金のまま、相続してしまうと、金融機関は、当然、相続財産から回収を図る。借入金は、リスケジュール中、私が手伝って(4年前)からは、一部のコロナ融資を除いて、借入金は増えていない。地道な商売をしていれば借入金がそこまで増える業態ではなかった。

先代は、現社長の無能力を悟っていた節があり、現社長の息子(孫)との間で養子縁組をしている。現社長が相続放棄すれば、相続資産は、金融機関に渡らず、相続人(先代の妻、現社長の妹、現社長の息子)が相続することになり、財産が棄損することはない。

私のプランは、息子(後継者)に新会社を作らせ、新会社に現会社の事業を適正価格で譲渡、現社長は、相続が派生する前に自己破産、経営者保証のガイドラインを使って、最低限の資産を守る、というものだった。免責になってしまえば、旧債務は、なくなり、相続しても問題はない。

ところが現社長はそのプランを拒絶した。何度か説得を試みたが、納得しない。後継者は、現社長を顧問、あるいは、会長の名目で、新会社に残ってもらい、現状と変わらない待遇で迎える、との思いだった。旧知の弁護士もそのプランしかない、と現社長、部長(奥様)を説得したが、奥様は理解してくれたものの、現社長は、自らの地位にこだわり、自己破産を認めない。

その後、相続が現実となった。いまからでも遅くないので相続放棄を進めた。ところが、納得しない。

それどころか、後継者に実権を握られることを生理的に拒絶する。相続放棄がらみの打ち合わせになると後継者の非をあげつらい、結果的にけんかになってしまう。コンサルが立ち会った話し合いの席では、相互ともにコミュニケーションをとり続けることで納得を得るが、業務に戻ると社長の態度は豹変する。いわく「息子は苦労を知らない」「息子も私のようにドライバー兼営業からたたき上げるべきだ」。

息子(後継者)の言い分は、だらしないから借入金が膨らむ、それを後継者に押し付けられるのは、たまったものではない、ともっともな理屈だ。結果的に現社長と後継者の関係性は完全に崩壊、後継者は、会社を離れていった。そこまできて、現社長は、相続放棄した。ただ、ときすでに遅く、現社長と後継者の関係性はいまだ、修復にいたっていない。

社長が地位にこだわることは理解できる。ただし、借入金と事業の発展、さらに後継問題は。別物である。

こうした事業承継問題は、中小零細企業では珍しくない。

  • アパレル小売り

第二会社の失敗

中途半端な第二会社で失敗した典型的なケースにアパレル小売りの会社がある。とある地方都市でアパレルメーカーを運営していた社長、アパレルの不況と商品力のなさ(ほとんどコピー商品)から、売れなくなった。デザイナーもパタンナーも不在で、サンプルを縫製工場に持ち込み、素材違い、色違いで作って卸すという安易な商売で、それなりの売り上げを上げていた。ただし、この手のアパレルが激戦の続く業界のなかで生き延びられるはずもなく、縫製工場の支払いが不能になり、保証協会付きの借入金でしのいでいた。それもすぐに限界に達した。運転資金を借入れた段階のほとんどのケースが先ゆかなくなる。

社長は、もともとアパレル小売りの出身、息子の名前で第二会社を設立、横浜近辺のショッピングモール数か所に小売業を出店した。私に依頼があった当初、全体像は見えなかった。通常の第二会社だと思い、第一会社のことには、ほとんど触れず(すでに整理されていると思っていた)第二会社の小売業の販売コンサルを行った。ディスプレイを直し、商品構成に関するアドバイスをする。途中でおかしいことに気づいた。展示会に行く様子がない。私の知り合いのアパレルメーカーの展示会に誘っても、心ここにあらずだった。一応、コンサル契約をしていたので、旧知のアパレルメーカーは、支払い条件を含め、相当便宜を図ってくれた。それでも発注する様子はない。

二つの問題を抱えていた。その一つは、中途半端な第二会社だったため、第一会社の整理も修正もまったくできていなかった。乗り回している自動車(妻の分と自分の分)は、第一会社のリース物件だった。さらに第一会社の借入金を第二会社の売り上げから返済していた。実質的に第一会社のアパレルは有名無実、企業活動を行っていないばかりか、借入金とリース料金の支払い窓口でしかなかった。

いくらか売り上げが上がってもその資金はどこかへ消えてしまう。アパレルの場合、さまざまな商品仕入れの仕組みがある。消化した分だけ払う方法、完全委託で、売り場だけ用意し、メーカーが商品の所有権を持っている方法、当然、完全買い取りが理想だが、わが国の悪しき商習慣はアパレルビジネスのなかで、いまだ残っていた。のちに分かったことだが、商品を消化仕入れで仕入れ(買ったことと同じである)その売り上げ代金を商品代金としてメーカーに支払わず、生活費、第一会社のリース代金、さらには第一会社の借入金の返済に流用していた。仕入れ先のアパレルメーカーが怒るのは当然だ。数か月なら支払いを伸ばすことが可能でも、それがたまると商品が入らなくなる。次々、仕入れ先を変え、商品を用意していた。

第二会社の社長である息子は、その辺の仕組みを全く理解しておらず、父親の指示で借入金を増やし、さらに父親一家の生活費を売り上げから工面していた。テナント賃料も同様だった。自由が丘にあった直営店は、賃料不払いで退去となっていた。商業集積の場合、売り上げ管理はデベロッパーが行う。レジに入金された売上金は、一度、デベロッパーが集金し、そこから賃料を引いて、小売店の口座に入金される。その間にも買掛金は膨らみ続け、いくつかの仕入れ先から裁判を起こされていた。

それが、あからさまになったのが、年末の12月28日だった。いきなりデベロッパー(売り上げはデベロッパーに一時的に預けられている)に差し押さえが入った。この日時は、仕入れ先の悪意が満々だった。12月末から1月初旬まで裁判所は動かない。当然、ほとんどの弁護士も年末休みと正月休業をとっている。対応のしようがない。

結果的に「テナント契約」に基づき、店舗は退去勧告、全貌を私が知った時には時すでに遅し、弁護士を紹介したが、手の打ちようがない。旧会社の社長(父親)、第二会社の社長(息子)旧会社の役員(父親の妻、新会社社長の母親)は、すべて破産、費用がないため、法人に関しては、放置状態となった。弁護士は、当初、個人だけの破産をいやがったが、何とか頼み込んで、破産手続きだけは、やってもらうことができた。費用を前払いさせたのは言うまでもない。

一時期、借入金まみれの第一会社を放置し、第二会社で新たな商売をする、という再生スキームが流行ったが、それなりの法的裏付け、あるいは、戦略的裏付けがない第二会社は、破産どころか、犯罪になりかねない(詐欺で告訴される可能性もあった)。もう少しで詐欺の片棒を担がされるところだった。旧会社の社長(父親)は、悪人ではない。ただし、会社経営、資金管理、仕入れ販売管理という基礎知識がまったくなかった。

その後、この一家は離散したが、さらに数年を経て、父親はゴルフのレッスンプロとして生活、息子は普通のサラリーマンとして、関東地方でそれなりに暮らしている。「その際はお世話になりました」とチョコレートの詰め合わせが送られてきた。

 

  • ソーラー電気営業

小規模個人再生

北陸地方のクライアント、借入金の返済が滞っており、カードローン、ノンバンク融資で回している状況だった。もともと社長は、住宅の内装工事、外装工事を請け負っていた。かつて勤務していた小規模企業から、独立、自分自身は、工事のノウハウはないが、職人さんの知り合いは多く、仕事をとっては、職人さんに振り分け、自分は監督兼営業という立場で、それなりに生活は成り立っていた。

躓いたのは、ソーラー発電営業のフランチャイズに手を出したことだった。ソーラー電気発電のフランチャイズは悪質なものも含め、一時期乱立していた。加盟金、保証金を支払い、エリアの権利を購入する。すると、一定のノルマが課せられる。ある程度の売り上げを上げると(ノルマをクリアすると)手数料は減額され、一軒当たりの営業成果は、高まるシステムだ。

当初は、内外装の得意先に営業をかけ、数年後には、電気料金を上回る収入が得られ、さらに売電を行うことで一定の利益がとれるビジネスモデルだった。契約は、提携したリース会社が間に入って、「リース」の形で太陽光発電の機器を導入してもらう。電気料金は、低減されるが、リース料金は、それとは別で、どう考えてもリースアップする5年間は、導入先は現金の持ち出しになる。売電まで至るのは、経済的に相当余裕がある導入先に限られる。実質的には、経費の軽減どころか、リース料金だけ持ち出しが増える仕組みである。

売り上げ不振、経費の増加に悩む飲食店、小売店は、「うまい話」に乗りやすく、当初、契約は、順調に進み、フランチャイズ本部は契約一軒あたり、一定の金額を当該社長に支払う。フランチャイズ本部は、リース会社から一括で回収できるため、リスクはほとんどない。数年が経つと、「聞いた話と違う」というクレームが入り始める。そのころには、本業の内装、外装は、皆無になっており、太陽光電気の営業だけで、会社を回す状態になっていた。

一見、手離れは、良く契約だけ取ってしまえば、一定の金額が自動で口座に振り込まれる。

手がかかり、職人さんのマネージメントにも気を遣う内・外装営業より、効率ははるかに良さそうに見える。

社員を雇い、一時的に数億円規模の手数料収入が入るようになっていた。こうしたフランチャイズのリスクは大きい。既存の得意先を回り終えると、新規営業となる。最後には一般住宅にも営業をかけるようになる。一般家庭向け営業では、全く成果が上がらない。当初は、フランチャイズ本部が営業アシストを行う、という話だったが、実際には、年に数回ある営業研修会で、営業の「コツ」を聞くだけだった。それも自社製品がいかに優れているか、という説明に過ぎず、成功した事例を列挙するだけの営業研修だった。

自転車操業どころか、契約した事例からわずかに上がる歩合収入だけの売り上げ状態となった。固定費が回るわけがない。詐欺ではないが、新興フランチャイズによくあるビジネスモデルだ。

導入した顧客からのクレームは増えるばかりだ。さらに営業ノルマを達成するために一定の金額を負担して、無理やり、顧客にシステムを導入させるまで追い詰められていく。その

経費負担は、借入金で賄っていた。あっという間に借入金は5000万円弱にまで、ふくらみ、その返済、さらにクレーム対応、固定費の負担で、ぎりぎりまで追い詰められていく。

私が相談を受けた時点で、借入金の返済は滞り、新規営業どころではなくなっていた。「詐欺ではないが、極めて実質のない事業、ある種ねずみ講的な要素が強いので、早急にそのビジネスから撤退すべきだ」とアドバイスした。このままでは、クレーム対応で「夜逃げ」しかなくなってしまう。

借入金の総額が5000万円を超えていないことが幸いだった。これなら小規模個人再生が使える。まず、会社を解散させた。借入金があるままでは、解散ができても、「清算」はできない。それでも「解散」は可能だ。そのことを債権者に通知すると、個人で連帯保証している当該社長に債務が移行することになる。そこで初めて小規模個人再生が使えるようになる。旧知の司法書士(個人再生は慣れている)に紹介し、無事、小規模個人再生で借入金を元本の10%にまで圧縮することができた。これを3年、または、5年で支払うことで借入金からは解放される。小規模個人再生を裁判所に申請すると原則としてクレジットカード等は使えなくなる。ただし、事業には関係ない配偶者は、これに当たらない。配偶者のクレジットカードのファミリーカードという形で、クレジットカードも、自動車のETCも継続して使えることになる。ただし、このカードでの借入枠は、5万円程度として、借入金体質からの脱皮を図ることが必要だ。

さらに住宅ローン特例を活用すると、ローンが残っている住宅に関しては、除外されるため、失われるものは、最低限で済む。当該社長はかつて、所属していた内装企業の契約社員として、勤務している。月額7万円強の小規模民事再生の支払いは、楽ではないが、共稼ぎで、なんとか、工面して、住宅ローン、と再生債務を払い続けている。自己破産も当然、考えたが、自己破産だと住宅も失ってしまう。この事例は小規模民事再生が適正なケースであった。ただし、弁護士に依頼すると、債務者本人には、ほどんど、やることはなく、弁護士が代理人として手続きを行ってくれるが、費用が50万円~70万円程度かかる。一方、手慣れた司法書士の場合、手数料は30万円~40万円で済む。完全な代理権はないため、司法書士に頼んだ場合、裁判所から指定される弁護士(再生委員)との面談等の手間はかかるが、どちらを優先するかである。また、比較的複雑な手続きのため、数字の検証(減額された債務を支払い続けることが可能かどうかを突っ込んで判断される)が細かく行われるため、そのあたりは第三者の支援が必要だ。私は非弁活動にならないレベルで、アドバイスするようにしている。あくまでも司法書士と本人が主役で、難題をこなさなければならない。

 

  • 古本屋

どこまでもダラダラ、楽観的すぎる悲劇

「借りた金は返すな」というベストセラー書籍がある。著者に言わせると本来「借りた金は借りてまで返すな」という原題だったという。それがインパクトを求めて、極端なタイトルになってしまった。とある書籍店は、いまだ、法的整理も行わず、借りた金を返さずに営業を続けている。

新刊書店を営んでいた当該社長は、店舗数を増やし、ショッピングセンター出店を含めて3店舗の小型、中型書籍店を経営していた。かつて、書籍店は、週刊誌、月刊誌の売り上げで、それなりに営業することができた。さらに売り上げが固い文庫本、ベストセラーといった「後追い」の商品仕入れで、何とか品ぞろえをし、さらに書店特有の「完全委託販売」という取引慣行から、それほどリスクを負わずに商売ができた。ただし、利ザヤは薄く、設備投資(無計画な多店舗化)は、命運を左右する。さらにチェーン店化する大型古本店、アマゾンをはじめとしたネット販売、一般書籍店には、逆風が激しく吹いている。コンビニエンスストアも書籍店の競合となっている。雑誌に関しては、風俗関係も含め24時間営業のコンビニエンスストアの主力商品になっている。さらに一部のベストセラーまで、取り扱うコンビニエンスストアも増加している。

当該企業のオーナーは「本好き」だ。とくに野球関連書籍に関しては、野球関連の研究会に所属し、古い野球関連雑誌の収集で、一定の評価を得ている。私は、もともと、読書好きだったため、知り合った当該会社社長とは「商売抜き」で話を聞いていた。当初は、出版の話、古書店を営業する話など、極めて前向きな話だったが、突っ込んで話を聞いてみると、実態は多店舗化による1億円を超える借入金があり、それをほとんど支払っていない破綻企業の経営者であった。さらに税金の滞納もあり、まだ、存続している書籍販売の会社には、営業実態がないにも関わらず、1億円を超える借入金が残っていた。

普通に会話していると、当該社長はとてもいい人だ。愛想もよく、人の話を素直に聞いているふりは上手だ。ただし、すべての支払いが、だらしない。税理士にも報酬未払いで見捨てられていた。第一会社は、清算はおろか、数年の間、決算すら行っていなかった。私は新たな事業展開の前に会社の整理(破産するか、清算するか、あるいは解散放置か)を進言した。そんな話をしているうちに、どこかから、雑誌コードの売り込みがあった。当該会社社長は、出版に夢を抱いていた。

出版コード(書店に扱ってもらう権利)を安くはない金額で買い取った当該社長は、野球関連のマニアックな雑誌を季刊で発行した。数多く雑誌を扱う大手書店には、珍しさから置いてもらうことができた。それでも数百部単位である。一般的に雑誌の損益分岐点は2000冊の実売だ。それ以下だと多少定価を高くしても赤字、資金の持ち出しになってしまう。予想通り、野球専門誌は赤字を垂れ流した。さらに編集を委託している編集プロダクションへの支払い、ライターへの支払い、経費はすべて先送りになり、費用は、雪だるまのように膨らんでいく。それでも出版を続けられたのは、雑誌に記事が載る、という権威が、いまだに様々な業界に残っているため、編集を請け負い、記事執筆を請け負う業者が、存在したためである。結果的にさまざまな企業、ライターに迷惑をかけながら、無理やり、出版が続いた。借入金は膨らむばかり、すでに離婚して、一人暮らしをしていたが、その生活費にも事欠くに至った。

そこで、新刊書店を長くやっていた関係で古書店開業のハードル(古物商免許と古本市場に出入りする資格)を超えることができた。当該社長は私に古書店の粗利益は90%以上、うまくいけば、借入金を返すことも、新たな事業展開も可能だと楽観的な見通しを語った。店舗を構えることはできずに、古本を仕入れては、インターネット(アマゾン、楽天)で販売した。パートの配送担当の従業員の給料は、当然、未払い、配送に手がかかるため、という理由から息子を巻き込んで、古本販売につき進んだ。事業はそう、うまくいくわけがない。多少利益がでると、雑誌に利益をつぎ込んでしまう。新たな会社を作り、息子を社長に据え、政策金融公庫から「創業支援資金」を借りた。日本政府は、新規開業、創業には、極めて寛容で、それなりの事業計画と絵にかいた採算計画さえあれば、500万円までは、比較的簡単に融資を受けることができる。実際は無計画な創業である。瞬く間に創業支援融資は消えてしまう。

後に残ったのは、古本の在庫と給与未払い、さらに生活費にも事欠く、親子2人である。

当該社長はいまだに雑誌の編集出版を続けている。古書店は、当然、赤字だ。

そんなとき、実父が他界した。実父は千葉県に古い家屋を所有しており、その家屋の相続資産も無謀な事業に消えていく。

かつての会社の借入金は、そのまま放置だ。保証協会、ノンバンク、カードローンなど債権者から当該社長の銀行口座は何回か、差し押さえを受けたが、預金残高はほぼ0に近い。差し押さえには、それなりに費用が掛かるため、数回の差し押さえで無駄とわかると債権者は、あきらめざるを得ない。多額の借入金を抱えながら、当該社長は古本ビジネスと雑誌発行ビジネスを続けている。

私が紹介した会社設立のための司法書士費用も未払い、これも紹介した税理士費用も未払い、私のコンサルフィーもいうまでもない。かろうじて、創業支援融資の手数料だけはいただいたが、友人の司法書士費用だけは、分割でも支払うよう約束させたが、どうやら、今では支払っていないようだ。私は、その段階で手を引き、連絡もしなくなった。司法書士への支払いを催促したため、当該社長からの連絡も途絶えている。

無資産、無現金の立場は、予想以上に強い。ないものは取りようがないのが現実だ。冒頭の「借りた金は返すな」を自ら実行している当該社長、借入金や未払い金の整理を行わない限りは、事業の成功はない。ないはずである。いまだに当該社長は、ほとんど可能性のない雑誌がブレイクして、売れること、さらには、もう一度、表舞台に立つことを夢想して、息子ともども、あがいている。

 

  • アパレル

大手婦人服専門店で異例の昇進、入社2年で基幹店の店長代理を務める。当該社長は、ファッションセンス抜群、頭脳明晰だった。大手婦人服専門店を退社後、東京の中心地で古くからテーラーを営む社長に見いだされ、その企業が、第二の柱として出店したカジュアルウエア専門店の責任者となる。当該社長が管理・運営するようになって売り上げは急激に増加、1店舗だったカジュアル専門店を数店舗まで拡大した。

オリジナル商品(今でいうSPA)もいち早く手掛けた。24色カラーバリエーションがあるTシャツ、ジーンズ、ブルゾンとユニセックスのアイテムを次々と作成した。年に一度はパリを訪問、まだ、日本に入っていないブランド、商品を次々と買い付け、いち早く日本市場に持ち込み、ファッションお雑誌にしばしば取り上げられた。

大胆な出店戦略と商品戦略は成功したが、親会社の老舗テーラーの社長と折り合いが悪くなった。よくある話だが、資金を提供した親会社社長は、当該社長の自由気ままな運営方針を快く思わなくなった。成功すればするほど、対立は深まり、とうとう、当該社長は老舗企業から独立した。

商品開発とファッションセンスには自信も実績も持っていた当該社長は、アパレルメーカーと小売店を同時展開した。センスを追求し過ぎた。店舗は、ブルージーンズと白いシャツに絞り込んだ商品構成、アパレルは、独自のセンスによる奇抜ではないが、少し早すぎる感がある商品ばかり。予算の制約から、店舗立地は23区内であるものの、ファッション立地としては決して適正とは言えない場所だった。

商品開発、店舗運営で資金はかさんだ。自己資金が豊富にあるわけではない。資金は、事業計画と連帯保証による借入金で賄った。アパレルの恐ろしいところは、シーズンによって売れ筋が大きく変わることだ。フランステイスト、ヨーロッパテイストの商品だけを扱う当該社長の前に、空前のアメリカンカジュアルブームが訪れた。売れるからといって売れ筋追求をする当該社長ではない。あくまでもオリジナリティにこだわり、わが道を突き進みファッション雑誌にしばしば取り上げられた。ところが、売り上げはついてこない。結果的に在庫の山となり、借入金は、返済不能となった。

その後、当該社長は、離婚を経て、再婚、再婚した女性は、当該社長を師と仰ぐカジュアル専門店時代から縁が続いた女性だった。結婚した女性は、都心近郊の農業者の娘だった。父親が亡くなったと同時に広大な都心近郊の不動産を相続した。それを資金にもう一度という野心は当該社長にはなかった。やることはすでにやった、あとはゆったりと生きるだけ、という考え方だった。私は、相続と前会社の整理の一部を手伝った。報酬は、遅れたが、相続と同時に支払われた。

一定の才能、能力があっても成功を収めるとは限らない。相変わらずファッショナブルな当該社長は、マンションの管理人を週2回しながら、世田谷の一流マンションに暮らし、悠々自適の生活を送っている。

 

  • 紳士服カジュアル

   破産と矢沢永吉

静岡県のロードサイド紳士服店、店長だった当該社長は、スポンサーのパチンコ店の方針転換から、独立を余技なくされる。ロードサイド紳士服店の部下3人を連れて、独立、紳士服カジュアルウエアを企画生産、販売する店舗を構えた。当該社長が勤めていたロードサイド紳士服店を「居抜き」の形で賃貸し、そこで、カジュアルウエア専門店を始めた。当初は、ロードサイドにメンズカジュアル専門店は、ほとんどなく、それなりに販売実績を上げることができた。商品は、独自企画といっても当該社長は、アパレルデザイン、製造の訓練は受けていない。商業高校を優秀な成績で卒業して以来、紳士服ロードサイド店舗で販売業務を行っていた。当時、流行していた裏原宿と呼ばれるメンズカジュアルウエア専門店の商品をほぼコピーして生産していた。仕入れ商品は「現金問屋」から、仕入れる。

それでも当該社長の販売力と目新しさから、それなりの売り上げを上げた。つまずきは、2店舗目の出店からだった。比較的中心地のファッションビルに2店舗目を出店したが、全く売れない。ロードサイドの店舗と中心地の店舗の売れ筋の違いを把握していなかった。

そこでネット販売に乗り出すことになる。それも隙間を狙ってL、LLサイズのトレンドカジュアルに絞り込んだ。大柄の男性のファッションカジュアルは、ほとんどなかったため、それなりにファンができ、ネット販売は成功するかに思えた。

オリジナル商品を作るためにはそれなりの商品ロットが求められる。最低ロットを適正価格で販売するためには、どうしても「在庫」を抱えてしまう。通常の専門店は余剰在庫をバーゲン等でさばき、損益を調整しているが、ネット販売では、バーゲンは難しい。価格を安くするとそれが定着してしまい、通常の上代では、売れなくなってしまう。

過大在庫を抱えた当該社長は、独立当初、借り入れた資金の返済が難しくなった。さらに比較的好調だった時期に住宅ローンを組んで、地方都市としては、豪華な住宅も新築していた。ビジネスが不調に陥ると、住宅ローンも支払えなくなる。

そこで、私に相談があった。その時点で返済は滞り、開業資金は「保証協会」により代位弁済されており、住宅ローンも「期限の利益」(3か月)を超える滞納状態となっていた。住宅の任意売却、事業の整理、さらに借入金の整理を勧めた。当該社長は、自らの経営に自信を持っている。商品企画さえ、うまく当たれば、ネット販売はまだまだ伸びる、と考えていた。ところが、新規商品を製造する資金すらない。ノンバンク、怪しげな貸金業者に手を出し、その取り立ては日々強まるばかりだ。

任意売却専門の不動産業者を紹介した。住宅は何とか「任意売却」することができた。「任意売却」とは、不動産ローン残債を下回る金額で、金融機関(住宅ローンを組んだ)と交渉のうえ、不動産売却する手法である。残りの債務は、基本的に無担保債権となり、多くの金融機関は、取り立てをあきらめる。あるいは、サービサーと呼ばれる債権回収会社に回される。

さらに保証協会融資、ノンバンクの借入金の整理が必要だった。保証協会はともかく、ノンバンクの取り立ては厳しい。すべて合わせると1億円を超えていた。ネット販売が、うまくいったとしてもこの負債は返しきれる金額ではない。自己破産を選択した。弁護士に依頼、会社、個人ともに破産した。

当該社長は、矢沢永吉を溺愛していた。誰もいなくなった事務所で矢沢永吉を大音量で聞く、抱えた債務から、気を紛らわせる唯一の手段だった。自己破産の手続き中、矢沢栄吉のコンサートに私は誘われた。気分は、乗らなかったが、一応、クライアントだ。少ないとはいえ、月額契約費用はいただいている。ところが、単なる誘いではなかった。コンサートチケット代を立て替えてくれ、というのだ。まあ、マニアにとってもは「プラチナチケット」のようであった。ファンクラブにはっていても抽選でも当たらない、なかなか、貴重なチケットのようだ。いやいやだが、コンサート代金を建て替え、コンサートに付き合った。「成り上がり」になりきれなかった社長は、熱狂的に声を上げていた。その後、建て替えたチケット代金が返ってくることはなかった。

業務が不振のとき、いくつかの選択肢がある。借入金を増やして、業務を拡大するか、借入金の整理も含めた業務の縮小、あるいは撤退をするか、である。特別な技術やノウハウがある企業は、業務拡大の選択肢もありえる。だが、ほとんどの場合、特別なノウハウも技術もない企業が多い。ただ、単に時代の波(例えばネット販売)にのって、売り上げ高を拡大した企業が、その波の終焉とともに、暗礁に乗り上げるケースが多い。だれでも簡単にできる企業(例えばコピーアパレル)ほど、その可能性は高い。

 

 

多店舗化の落とし穴

当該社長は、若いころ、貨物船に乗って、アメリカに渡った。もともとは、家業の八百屋さんを手伝っていたが、海外への夢を捨てきれず、サンフランシスコの日本人街のレストランで皿洗いのバイトをしながら、米国生活を数年間送った(1970年代のこと)。不法滞在であった当該社長は、あるとき、イミグレーション(移民局)の査察に出くわし「ベトナム戦争に行くか、強制送還されるか」と迫られる。ベトナムの悲惨さは、聞き知っていた。とくに不法滞在の外国人は、生きて帰れば「在留許可」(グリーンカード)が保証されるが、最前線に送られることがほとんどだ。

当該社長は、強制送還を選び、日本に帰ってきた。当該社長は、商売に関する情熱は強く持ち、アメリカ暮らしで培った独自のセンスを持ち合わせていた。家業の八百屋さんを手伝いながら、一定の資金をため、都心近郊の立地に喫茶店を開業した。当該社長の持っていた人当たりの良さと独特のセンスにひかれた顧客が、それなりに集まり、商売は成功した。野心的な人である。単なる喫茶店から、ゆで上げスパゲッティを売り物にしたレストランへと業態転換した。当時、ゆで上げスパゲッティは、近郊都市では、珍しかった。サンフランシスコで培ったセンスで、次々と新メニューを開発し、一定の売上高を実現した。

繁盛店を地元の信用金庫が見過ごすわけはない。当該社長も1店舗のオーナーで終わることは、当初から考えていなかった。信用金庫の融資の誘い、さらには、量販店の正面という絶好の立地を見つけたこともあり、2店舗目を開店した。2店舗目も繁盛した。信用金庫から受けた融資の返済は、確実に進み、さらなる融資の誘いが、ひっきりなしに来た。スパゲッティレストランにとどまらない社長の野心は、他業態に向いた。花屋である。八百屋時代に出入りしていた首都圏近郊の市場は、花市場と隣接していた。知り合いも多く、花市場に参入する権利は簡単にとることができた。さらにスパゲッティ専門店の3店舗目の出店も行う。当該信用金庫の融資である。2店舗目まで、順調にきた当該社長は、所属する商店街からの信頼も厚く、信用金庫は、一定以上の信用を与えていた。事業以外無欲な当該社長は、中古のフォルクスワーゲンを乗り回していたが、それ以上の野心はなく、アパートに暮らし、質素な生活を送っていた。その点でも信用金庫の信用は厚かったものと思われる。

近隣に3店舗目、さらに4店舗目と出店を続けた。勢いのある時期には、次々と比較的優位な条件での出店依頼は相次ぐ。3店舗目に関しては、立地はそれほど良くないが70坪というこれまでの店舗の倍のスペース、家具付きの居抜き物件だった。私は、出店コンサルとして、契約していた。

4店舗目から明らかな問題が起きた。当該社長は3店舗目までは、自らすべての業務内容をチェックしていた。必ず、1日3店舗を回り、味見をし、清掃状況など、細部までのチェックを怠らなかった。ところが、4店舗目を出店した段階で、本店をアルバイト上がりの社員に任せざるを得なくなった。本店(自社物件)の売り上げは、急速に落ち込んだ。2店舗目も同様、当該社長の目が行き届かなくなった店舗は、売り上げが予想以上の速さで落ち込んだ。飲食店の場合、よほど、特殊な技術を持っていない限りは、アルバイト上がりの人材でも運営することができる。給与もそれほど、豊富に支払えるわけではない。基幹店舗だった2店舗目は、アルバイト上がりの店長の友人のたまり場になってしまった。すると、一般客は、避けるようになる。「店舗は一見の人のためにある」私は、単純なセオリーを説いたが、拡大意欲にかられた当該社長の耳には入らなかった。

3店舗目、4店舗目も同様だ。当該社長の目が行き届かなるなるにしたがって、売り上げは落ち込み、それどころか、味に対するクレームも多くなった。4店舗目を開店した段階で、質素だった当該社長の暮らしにも変化が訪れた。マンションを買い、本店のウエイトレスと結婚、金融機関からの信用も高まり、当該社長は、実業家的振る舞いとなった。

そこで、当該社長は、思いもよらない「病」に侵された。もともと、結核を患っていた。その肺にさらなる異常が起き、原因不明の呼吸困難に陥り、携帯酸素が手放せなくなってしまった。

その状態でも5店舗目を出店、さらに各店舗に対する目は行き届かなくなる。売り上げは落ち込み、順調だった金融機関への返済も滞り始めた。いつのまにか、というより、数か月で、金融機関は手の平を返す。保証協会なし、の運転資金の貸し付けは、2度までしか許されなかった。私は、その時点で、マーケティングコンサルタントから、事業再生も手掛けるようになっていた。ほぼ、無償で当該社長の事業再生・出口戦略を立案する立場に変わった。条件の比較的いい店舗は、居抜き交渉、客筋と従業員をそのままで、運営権だけ販売する。2店舗は、比較的優位な条件で、居抜きで、売却することができた。そうではない店舗は不動産会社と話し、できるだけ、資金がかからない状態で、退店だ。これも動きまわった結果、何とか、原状復帰をまぬかれる形で、退店することができた。本店に関しては、自社物件であり、残債があるわけではなかったため、営業を続けた。しかし、本店資産が棄損することは目に見えている。一部の保証協会付き融資は、すでに代位弁済になっており、保証協会とは極めて少ない金額で、返済を継続することで、話し合いはついていた。間髪をいれず、婚姻年数から無税であることを確認、無担保だった本店の名義とマンションの名義を妻に変えた。その直後に本店は売却し、第三者にわたすことが私の計画だった。タイミングの問題はあるが、債務とは関係がない善意の第三者に不動産がわたっていれば、通常、債権者は、何もできない。仮に訴訟を起こされても、長い時間と費用がかかり、その間は、売却資金で、過ごすことができる。

ところが、当該社長の妻は、駅前再開発の計画から、値上がりを期待し、売却をためらった。コンサルタントの立場で売却を強要することはできない。

最後に残った店舗は量販店に隣接する店舗と本店だけだった。量販店に隣接する店舗は、借り店舗だったが、当該社長の知人が貸主だったため、賃貸借名義を妻に代えることができた。その間にも当該社長の病状は悪化した。数か月後に店頭にでるどころか、起き上がるのも不可能になった。5店舗あった店舗は2店舗まで縮小した。ただし、金融機関への返済は5店舗出店した時点のままである。保証協会融資に関しては、相次いで代位弁済となった。本店も閉店、本店と距離にして、500メートルたらずの量販店正面店舗だけで、当該社長の妻が細々と営業を続けたいた。それでも当該社長妻が、借入金の連帯保証はしておらず、信用金庫も当該社長の病状を理解したうえで、必要以上の返済は求めなかった。

その間も私は、本店の売却を進言していた。それほど、高額には売れないが、このタイミングであれば、売却金額は、社長妻の自由に使える状況で確保できる。社長妻は、説得に応じない。私は、寝たきりとなった当該社長と電話で話す程度で、それ以上、助けることはできなかった。寝たきりの社長と当該社長妻の間に数年の間にかつての当該社長の浮気が発覚し、「齟齬」が生じるようになる。当該社長は、寝たきりになってからも浮気相手と電話連絡を続けており、それが、生きる気力にプラスに作用していた。それが、携帯電話の通話履歴から明らかになってしまった。寝たきりの当該社長と妻は、ほとんどコミュニケーションをとらなくなり、食事を与えることはするものの、話をしない状況が続いた。

そこで、突然、「詐害行為」裁判が起きた。信用金庫からプロパーで借りていた運転資金の一部が、サービサーに回っていた。サービサーは名義変更無効の裁判を起こした。と、同時に本店に対する仮差押えを実施した。本店の資産価値は2000万円程度、サービサーが起こした裁判は、わずか50万円の貸金請求だった。裁判は、敗訴、私はサービサーとの間に入り、本店売却により、50万円を返済することで、なんとか、乗り切ることができた。手元に1000万円強の資金は残ったものの、駅前再開発によって、値上がりが期待された本店は、第三者のものとなった。「あのとき、私の指示に従って、売却していれば」という後悔は先に立たない。

そうした段階を経て、1年後、当該社長は亡くなった。葬式は、私が動いて、「福祉葬」の形で、ひっそりと行われた。出席者は、親族を除いて私ひとりである。コンサルティングが再生モードに入ってからは、私は必要経費以外、無報酬だった。当該社長妻は、しばらく量販店前の店舗を運営していたが、契約更新の段階で、その店舗も撤退、大学生になった長女とともにパートタイムで働き、生活している。マンションは「団信」が生きていたため、ローンは無くなっている。当該社長の魅力的な笑顔と病を得たあとのさみしそうな声を忘れることができないでいる。

 

  • 木材販売業

為替融資で破綻したケース

当該木材会社は、3代続く「高級木材」を扱う事業者だ。バブル当時は「ヒノキ」などの銘木の需要がそれなりにあり、一定の売上高を維持していた。自宅兼事務所は、大田区の高級住宅街、2代目がバブル期に新築した高級物件である。2代目社長には娘しかおらず、実質的な経営は娘婿が、行っていた。2代目は、メガバンクから、ある時期「投資」のための融資を誘われた。業績がそれなりによかったため、また、金融機関が、その時期証券会社まがいの営業を積極的に行っていたため、全額借入金で「為替先物取引」に手をだした。結果的に1億数千万円の融資を受けて、為替先物の債券を取得したが、当然、現金は見ることもなく、全く意思決定をしないまま、融資と先物債権の取得が成立した。こうした債権はリスクを生じる。自己資金で実施する場合は、損の範囲は、自己資金の範囲で収まるが、全額借入で行った場合、巨額な負債となって、戻ってくる。

この金額は、メガバンクの回収専門会社にわたっている。経理を担当する長女は、そのほかにも数社の金融機関から、保証協会付きの融資を受けている。実質社長の娘婿は、もともとサラリーマンだったため、金融関係、資金繰りには無関心だ。

私に依頼があった段階では、リスケジュールも行っておらず、借りては返済資金を確保するという雪だるまの状態に陥っていた。一部の債権が、支払い不能サービサーにわたっている場合、通常では、他行のリスケジュールはできない。公的再生支援機関に相談しても、回答は「自己破産」しかない、と言われてしまった。公的再生支援機関は、一定以上の債務超過、さらには、適正な事業計画が、立案できない場合、門前払いを行う。景気の低迷から「銘木」に対する需要は激減し、主要得意先だった伝統的な「大工」、「工務店」からの受注は減るばかりだ。

 

⑫花屋

⑬土木建築業

⑭佃煮製造