鼈甲めがねのこと

今日は、一日、デスクワークなので、時間が余っている。朝方までの仕事も苦ではない。日が暮れてから本格的な仕事をしよう。ブログの書きダメ、というのもどうかと思うが、外出が続くと、ブログを書くタイミングを失う。すると、当然、アクセスが減り、がっかりはしないが、何か、期待を裏切っているようで、気持ちが悪い。

北千住というところに、明治時代から続く「O」という煮込み屋さんがある。私は20年以上、お世話になっている。江戸三大煮込みのひとつのようで、牛スジ肉を使った煮込みは絶品だ。お豆腐と煮込みで、肉豆腐、肉だけ、豆腐だけの注文もできる。さらによく煮えている豆腐と入れたばかりの豆腐をオーダーすることもできる素敵な飲み屋さんだ。

少し前は、いなせなおじさんと職人さんの居場所だった。ところが、取材お断りといいながらも、ごくたまにファッション雑誌などの特集に登場することがある。たぶん、断れない事情があったのだろう。いまは、いつも満席だ。昔からのいなせなお客さんもいるが、若者や、女性がぐっと増えた。

私は、そこでは焼酎のボトルを入れない。親父さんは、ボトルの方が安いよ、といってくれるが、キンミヤのボトルを入れないのには、理由がある。そこで、いつも頼んでいたのが、梅割りだ。ほぼ、焼酎ストレート、それにほんの少し梅酢を入れてくれる。ボトルを入れても梅酢は、ただで出してくれるが、ボトルを入れると「コップ」が違うのだ。多少、ほんの多少、高いのを覚悟して、梅割を単品でたのむと厚手のガラスの多面体のコップが出てくる。このコップが素敵なのだ。江戸切子だ。半透明のごつごつした手触りのコップは、焼酎と良く合う。以前、聞いたところでは、すでに製造している工場はなく、もう買えないらしい。そのコップで梅割を飲みたいために、ボトルは入れない。

ほかのおつまみも洒落ている。衣かつぎ、季節季節の魚、串カツ、さらにウドや、タラの芽など、酒飲みには、たまらない品揃えが墨字で書いてある。昔は、しめのしじみ汁も出していたが、誰も頼まないのか、今はない。

シラフで帰りたくないとき、途中下車して、30分か1時間過ごした。普段、愛想がいい親父さんは実は厳しい。静かに飲んでいる人の迷惑になる酔い方をしている輩には、ズバッと注意を与える。注意二回でレッドカード、退場である。また、最近増えた女性客に気軽に話しかけることもだめだ。女性が、拒否していなく、さらに話しかけている方も、モラルを持っていれば、なにも言われない。女性が少しでも嫌がっていたり、話しかける若者やおっさんが、無分別になっているときは、レッドカードが一発で出る。
ある日、そこで1時間くらい静かに飲んで、のれんをくぐって、外に出た。確か春の宵だった。そこは、日光街道の旧道に面している。千住の宿である。駅とは逆方向に歩くことにした。しばらく歩くと昔の本陣あとや、宿場町を思わせる平屋の今はもう、閉店している店が並ぶ。その中で、ウィンドーの向こうで、グラインダーを動かしている老人の姿を見つけた。見ると「星鼈甲店」(今はないので実名)と看板にある。狭い店頭には、鼈甲の小物やメガネフレームが、少しだけ並んでいる。しばらくおじいさんの仕事を眺め、そのまま出るのも気が引けて、ベルトのバックルを買って、その日は帰った。

そこで、よからぬことが閃いた。一時、メガネにこっている時期があり、とくに「アランミクリ」のフレームは気に入っていた。契約の関係で、ミクリのフレームが、店頭から無くなったことがあった。ミクリジャパンが出来たタイミングだ。そのとき、大手メガネ店は、今後、入荷しないミクリの在庫をバーゲンで裁こうとしていた。私は、半額以下のミクリのフレームを予備に二本ほど買ってあった。これを鼈甲で作ってもらおう、我ながらすごいアイデアである。ミクリのフレームを持って星鼈甲店に向かった。これと同じものは作れないですか?答えは作れるけど、お兄さんは若いから、白い鼈甲は、やめたほうがいい、黒いもので良かったら作ってあげるよ、とのこと。早速、お願いしました。半月ほどたって、引取りにいくと、まったくミクリとは似ても似つかないフレームが出来上がっていた。ウっと思ったが、そこは、男の子、鼈甲にしては、格安な金額を支払って、鼈甲フレームは私のものとなった。
格安チェーンでは、レンズは入らない。鼈甲フレームにレンズを入れるのは、それなりのテクニックが求められる。お湯で柔らかくして、そこにサイズぴったりのレンズを入れるのだ。したがって、レンズは定価だ。いまだ、私のフレームにはレンズが入ってない。

鼈甲のかんざしやメガネは昔、頭痛役として使われた。鼈甲が頭の熱を吸い取り、頭をスッキリさせるらしい。さらに江戸鼈甲は、どんなに壊れても修理が効く。もちろん、きちんとした職人さんに頼めば、の話だが。

星鼈甲店はもうない。こうして下町の職人さんがいなくなり、いいものが消えていってしまう。ほんの少ししかない私の形見になるメガネフレームだ。

大はし -

 

オール甲 DK6508 黒バラ甲