Tokioさんのこと

なんとなく、クマガイトキオで、Googleに検索をかけた。すると、主に女性のようだが、トキオさんの服を集めている、という人や、現役時代の(生前の)活動を知りたい、といった人がいるようだった。

私は、当時、某業界紙でファッションジャーナリストをしており、デザイナーインタビューを多くした。とくに印象に残っているのが、トキオさんだった。

インタビューを申し込むと、結構、あっさり受けてくれた。私はメンズ担当で、日本で、メンズコレクションを発表した直後だった。

コレクションはすごかった。毎シーズン見ていたので、イメージが混乱しているが、バック音楽にコーランを使ったり、英国のシェークスピア劇団の双子の兄弟を出演させたり、そうかと思うと極めてストイックなまるで、無言劇のような演出だったり。私は、トキオさんの宗教性について、指摘する記事を書いた(コレクション評)。それを読んでくれていたせいか、話は、宗教性から始まった。

嘘だと思うが、宗教には興味がないという。みんな、勝手にそういう指摘をするが、ことさら意識しているわけではない、という。では、何が好きなのか?そこで出てきたのは、三島由紀夫のことだった。私も一通りは三島を読んでいた。なかでも豊饒の海は、とても好きな作品で、2,3回読み返していた。

話は、豊饒の海の美学から始まり、「作家の休日」というエッセイに及んだ。
「江戸時代の武士が、竹やぶのなかから、緑色の和服をきて、でてきたらたまらなく美しい」という。それから、新幹線のお茶の話になった。「あんなものはお茶ではない、日本人は、あんなお茶を出している新幹線に文句をなぜ、いわないのか」と憤慨していた。

服の話、はほとんどせず三島由紀夫と日本文化の話であっという間に2時間が過ぎた。原稿を書く段になって、ファッションデザイナーから、服の話をまったく聞かない馬鹿な自分に気がついた。とき既に遅く、ありのまま、三島論と文化論だけで200字原稿40枚のインタビューをかきあげ、編集長を通さずに、知らん顔して、紙面に載せてしまった。

私のインタビューは社内的には、ほぼ無視されたが、私は満足していた。

数日して、トキオさんのプレスの女性から手紙をいただいた。日本にきて、何本もインタビューを受けたが、私が書いたものが、一番いいたいことがいえた、というお礼の伝言である。

その後、トキオさんのコレクションの招待状には、黒い○がはってあるものが届くようになった。当時のコレクションは、招待状に貼ってあるシールの色で、誘導される席が異なっていた。それまでもゴールド、シルバー、赤の招待状は、もらったことがあったが、黒のシールは初めてである。

なんと、カメラマンよりいい席が黒シールだった。横は川久保怜さんと、フランソワーズモレシャンさん、その横には三宅一生さん、が居並ぶ。亡くなるまで、その席は続いた。たぶん、媒体関係は私一人だった。

当時からトキオさんの服は、できるだけ買うようにしていた。とくに革製品は、安月給から絞り出して、無理やり手に入れた。テーラードは、さすがに今っぽくなく、着づらいが、革製品は、今でも大切に着ている。ドモン時代にほぼ確実にトキオさんがデザインしたサングラスも大切にとってある。

後にトキオさんが賞をとった某有名専門学校の非常勤講師をすることになった。なんと、その時の科目責任者の先生が、トキオさんが通っていた頃のアシスタント教官だったことが判明した。当時、講師と議論することもしばしばで、講師がやめるか、トキオさんがやめるか、どちらかだ、というくらい白熱した議論があったことを聞いた。

今も、キラー通りに面した某アパレルのビルの明るいアトリエで、気難しくも優しい瞳で、熱く語ってくれたトキオさんの純粋さが、思い出される。

服は、次元を超えたクオリティだった。今持っている革ブルゾンも、素晴らしい着心地だ。鹿革のリュックサックも大切にとってある(使い古してはいるが)。

たぶん、生きていれば、有名メゾンのディレクターを日本人として始めて手がけたに違いない。ラフ・シモンズより才能があった、と私は確信している。

亡くなったことを知ったときは、とてもとても悲しかった。