ドレスコード

ドレスコードという概念がある。昔は、タイム、プレース、オパチュニティ、TPOなどといった。原則は、燕尾服とタキシードの時間による着分け、あるいは、葬儀婚礼などの儀式での常識的着こなし、などを指すらしい。「らしい装い」の暗黙のルールでもある。とりあえず、これが官によって、壊されたのは、クールビズという言葉の出現だ。今や、裁判官も法服以外では、ネクタイをしていないらしい。

昔、生意気だった六本木のディスコにスニーカーでいって、入れなかった思い出がある。ディスコ(黒服)の単なる嫌がらせだ。第一ホテルのなじみのバーでも「雪駄履き」だった友人のデザイナーの入店を拒否された。京都の職人が作った革靴よりよっぽど高級な雪駄であったのだが。

 

ファッション関係の仕事が長かったため、ドレスコードとの付き合いは長い。記者時代に上場企業のパーティーにデニムの上下で出席し、新聞社の社長から遠回しにTPOがわかっていない、と言われた。記者編集者の場合、あえて、勝手な着こなしをすることで、人に印象を残すこともあった。

あるジーンズメーカーの記者懇親会に出たとき、私は紫のジャケットを着ていった。ライバル会社の編集長は、若い私を非常識な奴、と皮肉を込めて、ジーンズメーカーの社長の前で、からかった。「派手なジャケットですね」、私は小さな声で、はっきりと「バスコです」といった。バスコは、そのジーンズメーカーが最も力を入れているブランドだった。

 

コンサル会社の修業時代は、ファッションに対するこだわりは、私にとって禁止事項だった。その割に当時のコンサル会社は、いでたちにうるさい。主力コンサルタントは、ほとんどオーダーのダブルブレストのスーツを着ていた。私は、バーゲンで質はいいがきわめて地味なグレーのスーツを何着か買い、地味なネクタイですごした。髪型も坊主で通した。カフスボタンが古いコンサルタントの格を表す錯覚があり、ファッションにうといコンサルタントの先生はカフスボタンをこれ見よがしにつけていた。一部の地方大学でも、その古臭いドレスコードは存在するようで、旧帝大卒の若者が不自然にカフスボタンを付けていたのも印象的だった。

 

修行を終え、アパレル関連の企画会社に管理職としてスカウトされると、着こなしの自由度はいきなり増した。しかし、ドレスコードには厳しかった。ほとんどの上司は旧ヴァンヂャケットの精鋭だった。ラルフローレンのスーツ、イタリア製の革靴、とくに小物にこだわった。ポケットチーフの使い方も、そこで教えられた。靴とベルトで、人柄を見られる、とも教育された。尊敬する上司は、私のベルトが気に入らなかったらしく(古くなったギャルソンのガチャベルト)自分のロッカーからアメリカインディアンが作ったターコイスをあしらったベルトを出してきて、無理やり替えさせた。

 

この時代は、上司たちに反発しながら、なんとか個性を発揮し、おしゃれと言われるために工夫した。最終形は、今も来ているコムデギャルソンオムドゥの定番スーツとジョンスメドレーのニット、スリップオン型黒のスニーカー、コートは、ラルフのトレンチというスタイルを構築した。時計はヴィンテージのIWCだ。バッグもルイヴィトンをできるだけ乱暴に使い、わざと型崩れさせて使っている。

 

その後、2社会社を立ち上げ、経産省国交省との付き合い、銀行員対象のセミナーなどが増え、営業がらみでネクタイをするようになった。

 

そして、今、一人事務所となって、完全にドレスコードは、私のものになった。私がドレスコードである。

 

どちらかというと「どこかいかれた」いでたちが多い。頭は当分、坊主頭にする。スーツにスニーカー、冬場は、サイドゴアブーツだ。ネクタイは苦しいのでしない。ぼろぼろの雰囲気のなかで、きちんとしたものを着るようにしている。バッグは使い古したヴィトンかコーチ、リッズデールのハンティングバッグも使う。ベルトは、良質の革を使ったガチャベルトを集めている。時計はヴィンテージに凝っており、60年代のルクルトとIWCを使い分けている。その時代の目立たないロレックス(ロレックスに見えない)があれば買うつもりだ。

 

あっち側の人に見えないレベルで、危ない地味さが、着こなしのポイントだ。職業不詳、私服警官が職質をかけるかどうか、迷う程度のコーディネイトが理想だ。誤ったドレスコードを押し付けて業務能力を判断するようなクライアントとは仕事をしない。個性的である必要はない。あくまでも個人的な服装であるべきだ。

『エリック・サティとその時代展』展示風景

 

エリックサティは、いつも黒のスーツとハット、ステッキを持っていた。なん十着も同じ服を持っていて着まわしていた。