死んでしまった私の親分

そもそも暇つぶしの継続のために始めたブログだが、結構読んでくれるのもなのだなぁ。服の話には、アクセスが多かった。かつて、服はプロだったので、書きたいことは、たくさんある。

今はもう、服は買わないが、好きである。もう死んでしまった好きだった上司は、元ヴァンヂャケットの販売促進部長だった。彼とあったのは、私が30前後の頃、大手コンサル会社をやめ、彼が社長を務める企画マーケティングの会社(ヴァンヂャケットからオレンジハウスという雑貨店の運営も引き継いでいたグループ会社の一つ)に課長だか、次長だか、役職付きで入社した。

もともと、服は好きだった。学生時代は、デザイナーズブームだったが、私はもっとマニアックで、ヨーロッパのすごく値段の高いカジュアルウエア(ボール、クローズド、ゴルディ、フィオリッチなどなど)を販売する専門店で、アルバイトをしていた。

ゲンズブールやサティをカッコイイと思い、マルセルデュシャンに畏敬の念を持っていた。

ところが、ヴァンヂャケットは、ばりばりのアメリカントラディショナルである。その当時の上司はヴァンの販売促進部長として、数々の伝説的イベントを手がけた人だ。方向性が全く違う。

ある日、コムデギャルソンのスーツにシャツを着て、ベルトは、あえて使い古しのガチャベルトをしていった。足元は、スーツに合うレベルのシンプルなスニーカーだ。

朝、出社すると、行き成り上司に呼び出された。「なんだ、そのベルトは。男は、靴とベルトで値踏みされるものだ」。上司は、自分のロッカーに行き、ターコイズの飾りのついたインディアンアートのベルトを取り出し、「これに変えろ」と命令された。

そうしたファッションに反発する気持ちもあった私は、ある日、頭を五分刈りにして、スーツで出社した。家では、幼かった子供たちは、比較的長い髪だった私を父親と認識できずに30分くらいは、近寄ってこなかった。ところが、上司には評判が良かった。にやっと、笑って「似合うジャネイか」と一言。

一緒に外出した。当時は西武百貨店の本社は、池袋にあった。そこを訪ねたあと、上司は、池袋西武の「ポロショップ」を見たいという。当然、興味はないが、付き合った。上司が、ハンギングされたシャツを触ると、万引き防止のチャイムが突然なり始めた。店員は慌てて、「申し訳ありません」と誤った。私はにやっと笑い「俺のピストルが反応したかと思った」といった。上司は「そんなこと、言うと本気にするじゃねいか」と平然と、服を見続けた。

私はボーズ頭にスーツ、ノーネクタイである。一方、上司は、ラルフローレンのオーダースーツ(ダブルブレストのピンストライプが多かった)に白髪、豊かな髭、真っ黒に日焼けしている。どっから見ても「そっち側」の二人連れに見えてしまう。

そんなことを何回か、繰り返しながら、上司と私の溝はなくなり、一線を画してはいるが、とても親しくなった。独立してからも、関係は、上司が死ぬまで続き、イタリアンレッドBMWで、六本木まで、送っていったときは、とても嬉しそうだった。

いつも、机の横のロッカーの上に馬の本物の鞍とテンガロンハットを置いていた上司、マーチンD25を弾きながら、カントリーを歌っていた上司、メルセデスに乗っていたが、次は、キャデラックのFRの最終モデルを買う、といっていた上司、私のファッションの先生だった。