稲垣足穂 弥勒

稲垣足穂弥勒を久しぶりに読んでいる。いままで読んだ印象とは、大きく異なる。弥勒は、足穂の数少ない自伝的小説だが、いま、再び読んでみると、アルコール依存性小説の側面を持っている。
稲垣足穂は、経済的豊かさを、ほとんど顧みず、自らの美学をその文章の中で、繰り返し追求した。外見ももちろん、気にせず、生涯、古びた筒袖一枚で過ごしたとされている。その一方で、ファッションに対する見解は、図抜けており、自動車のラジエーターの機械的美しさの主張(フランシス・ピカビアみたい)、落ちることを前提とした飛行機に対する畏敬など、普遍的な「美」のあり方を思索した。
弥勒の主人公エミルは、金銭から意識的に離れることで、無一物となる。夜具は、カーテンだ。当然、食べるにことかき、「食べることへの依存」からも脱出しようとする。そのなかで、ゴミ捨て場の生ゴミ(残り物)にこそ、真の「旨み」があると、考える。
一方、ほとんど食べていない(固形物は3日に一回ぐらい)状態で、友人の持ってきたアルコールを連続1週間飲み続ける。このあたりの描写は、あっけないが、結果的に「デビル」が自分の中に住み込む。恐怖と、危機感が極限まで、膨らみ、その「デビル」と戦うなかで、あるいは、「デビル」と共存する中で、自己観察する。
「デビル」を避ける方法として銭湯への「入浴」を挙げる。アルコール依存の離脱状態になったエミルは、小学生にはやし立てられることもある。見かけは、たぶん、入院が必要なアルコール依存症者と同様、異様な魂がむき出しになった気配を周りに漂わせていたのであろう。そうしたとき、断食とアルコール依存からの「デビル」脱出方法として「入浴」をあげる。体を洗う力はすでにない。銭湯の湯船につかり、思索を深めるだけだ。
足穂は、こうした状況を決してアルコール依存による病的症状と認識しない。生き方の一つの方法として、やらざるを得ない状態として、冷静に見つめる。
断食を続け、食べることへの執着から、開放されそうになると、どこからともなく、食事が与えられる。そして、断食のレコードは、10日を限界に途絶えてしまう。
アルコールと断食の関係性は、当然、あったはずだが、そうは、捉えない。あくまでも存在の必然として「起こるべくして起こった」こととして、食欲と飲酒欲求に向き合うのだ。そして「ヒルティー」の文章を例に出しつつ、神の存在も考察する。
弥勒は、足穂が比較的若いころの自伝(レディメード)であるが、その他の対談等々を読むと、死ぬ直前まで、人と会うときは、3日前くらいから飲み続け、泥酔した「覚醒」のなかで、人に対したようだ。

明らかにアルコール依存であるが、それをどうということなく、無視して、名作(鬼作)を書き続けた。

「6月の都会の夜」、「真鍮の砲弾」など、美的イメージを次々生み出しながら、隠棲し、俗事との関わりをできるかぎり、避け続けた。

素敵な趣