大つごもり あいまいさとの闘い

今年の一番の挑戦は、新しい仕事への取組みだった。タクシー運転手だ。この仕事もあいまいではある。客は、タクシー運転手は、すべての道を知っていると勘違いしている。何十年やっても東京のすべての駅名や道、ましてや小道を覚えることは不可能だ。ただ、ベテラン運転手は地理に関する「勘」は研ぎ澄まされている。方向感覚で何となく、行く方向をイメージする。私は、ナビだよりで、なんとか、たどり着くも、効率的仕事をこなすにはまだ、時間がかかりそうだ。

 

見田宗介という名前だけを知っていたが、一冊も読んだことない社会学者が、新聞の夕刊で半生を語っていた。著名な社会学者が、最初にあげた影響を受けた人物は、死刑囚の永山則夫だった。社会との違和感が、自分と共通している、と語っている。「目無い、耳無い、お前、みみず、ちょろっと遠出して日干して果てた」という詩を刑務所のなかで、書いている。

 

無知の涙」は、私には難解だったが、死刑囚の感性は理解できるような気がした。永山則夫に続いて、寺山修二、「苦海浄土」が、挙げられる。美しくないものに美しさを見出す知性の在り方は、私が惹きつけられるテーマだ。

 

とりあえずは、人間は、他人に対して表面に出ている「身なり」や「立場」を他人に評価され、それと自己認識が一致した場合、アイデンティティを確立する、という古典的な学説がある。発達心理学では、他者の視線が、自己の視線と一致するという表面的で狭窄な論理を基盤としているケースが多い。私はそれなりに成功した中小企業診断士であるが、タクシー運転手と自己の視線は一致していない。

 

他者の視線も自己に対する認識も極めてあいまいだ。あいまいだから、見なりや、立場で評価する。さらに身なりや立場は、もっとあいまいだ。あいまいとあいまいが重なり合って、複雑な価値を形成する。すべて、共同の幻想だ。

 

約束もあいまいだ。その内容は、個人にとって異なった基準で設定されている。ある人にとって、重要な約束が他の人にとっては重要ではない場合も多い。しかし、人間は、他人と約束したがる。他人を約束によって、拘束できるような錯覚が、社会にとって必要なことだからだ。

 

殺人や、他の個体に苦痛を与える行為は、するべきではない。人は、別の人の生きることの権利を侵してはならない。

 

ただ、あいまいな約束が、積み重なって、結果的に人の生きる権利を侵している可能性は高い。逆にあいまいな約束によって、人の生きる権利を正しく存在させることもある。

 

善の研究」を読んでみよう。

 

あいまいさの中の眞實、あいまいさを一時的に固定するトリガーが、文学や、学問なのかもしれない。ファッションや音楽は、あいまいさを時間のなかで、象徴させる記号である。

 

少しでもあいまいではないものを求めるため、私は機械式時計をめでるのかもしれない。ただし、機械式時計は、あいまいで、さらに良く壊れる。あいまいさをただす努力の在り方に眞實、あいまいではないものがあるのだ。つまり、あいまいだと証明してくれるあいまいではないようなふりをしてくれるものが時計なのだ。

 

ほとんどのビジネスは詐欺である。あるいは、成功したお布施収集、衣食住の必然性とはすでにかい離している。農業や漁業さえもかい離している。

 

役人は、あいまいさを許せないため、決まり事に従うことにすべてをかける。多重に構成されたあいまいさの罠にはまらないで、生きていくことが重要だ。

 

あいまいさの中で真実らしいものを発見して、伝えることが私の仕事だ。

 

自分に対するあいまいさは、薬物中毒を生む。薬物は、あいまいではない。確実に期待通りの効果をもたらしてくれる。あいまいな自分が許せない自分は、あいまいではない薬物の効果に身をゆだね、あいまいではない薬物の依存性に侵されるのだ。私にとってアルコール依存は、あいまいからの脱出の手軽な手段だった。

 

違う方法で、精神的なあいまいさから抜け出し真実らしいものに向かう方向性のなかで、実験していくしかない。宗教の力を借りる必要もときにはある。これまでとは、まったく異なったタクシー運転手という「あいまい」のなかで、何かを発見しようと思っている。今のところ、タクシー運転手として働くことは、少しだけ「あいまい」からの脱出を図る手段になりそうな気がしている。自分の魂が違う次元に置かれる仕事だ。

永山則夫死刑