幼児教育226事件

孫が3人もいる。上の二人は女の子で小学生、下は男の子で、3歳になったばかり。

 

私の両親は、まったく本を読まない人だった。読んで、雑誌くらい。父は、競馬新聞以外を読んでいるところを見たことがない。私は活字中毒だ。速読は、完全にインチキだと確信している(嘘だと思うなら、速読の達人に高村薫稲垣足穂を読ませてみなさい、高村薫を理解するには、現代用語の基礎知識が必要で、さらに一定の知能指数がいる)。ただ、人と比べると若い頃、新聞社の校正室で訓練を受けたおかげで、比較的早く本を読むことができる。

 

私の幼児教育を担当したのは、元日本軍人だ。戦争中、満州で軍属として働いていたらしい。私の父が、工場長を勤めていたプラスチック工場の寮母さんと寮父さんだった。寮母さんは、もと、高校の先生だった、と後に聞いた。その工場の社宅に住んでいたことから、私は、1歳から小学校に入るまで、寮母さんと寮父さんにとても可愛がられた。私の両親にとっても、もしかしたら、その時代が、もっとも幸せだったような気がする。私は、工場長の息子という立場で、工員さんたちにとても可愛がられた。昼休みは、事務の女性が必ず近所のお菓子屋に連れて行ってくれ、いつも、お菓子が、たくさんあって、小食だった私は、お菓子を積極的に欲しがったことがなかった。

 

寮父さんは、身長が180センチ弱あり、肩幅が広く、とても大柄だった。私は、寮父さんに背負われて、工場の敷地内を連れられた記憶がはっきりと残っている。

 

そのときの子守唄が、「クレメンタイン」だった。なぜか、後にこの曲を聞くと、心の隅にメロディと歌詞(英語の歌詞)が、残っており、野太いテノールが耳の奥から、にじみだした。寮母さんと寮父さんの夫妻は、穏やかだが、どこか毅然とした感じがあり、父も工場の行員さんたち、事務所の人たちも、恐れていた気がする。

 

寮父さんは、どうやら英語を話すようで(1960年代の始めだ)、部屋の本棚には英語の原書や、中国語だと思われる厚い本が並んでいた。寮父さんは、私にとても難しい本を読み聞かせた。その本は、理解はできなかったが、私が知らない(工場の世界とは違う)広い空間が、広がっていたことを感じていた。私は、よく裸足で歩かされた。寒い季節も裸で、遊ばされた。幼い私は、裸足も裸もまったく苦痛ではなく、寮父さんに褒められると喜んで期待に応えようとした。何度も読み聞かせたくれた本が、後にパールバックの「大地」だったと知る。

 

小学校に入るとともに、私の父は独立し、その工場を離れることになった。ただ、年に一回くらいは、すでに工場をやめ、どこかのビルの管理人として住み込んでいた寮母さん夫妻を訪ねたことを覚えている。

 

私は、その後、右往左往しながら、大人になった。あるきっかけから二二六事件のことを知った。首謀者の名前を見ると「野中四郎」中尉という聞き覚えがある名前が出てくる。記録では、困窮にあえぐ、農民や庶民の当時の現状を改善しようとした一部の陸軍将校が決起し、要人を殺害し、最後は、首謀者は、反逆罪で死刑になったという。寮父さんの名前が、「野中四郎」だった。決起した当時の写真もインターネットですぐに調べることができた。中尉の写真は、寮父さんに酷似している。私の母にもその写真を見せた。寮父さんに違いない、という。

 

寮父さんは、第二次世界大戦中、満州で軍属として過ごした、と聞いている。敗戦で引き上げてきて、公職追放になった後、夫婦で身を隠すように、工場の住み込み賄い夫として、暮らしていた。

 

中学を卒業する頃、寮母さんと寮父さんは、亡くなったようだ。

寮父さんが、二二六事件の野中四郎中尉だった可能性は、ある。死刑を執行せずに、中国大陸に逃がした陸軍上層部がいたとしても不思議ではない。

 

オーマイダーリン クレメンタイン 声が今も私の耳に残っている。時間ができたら、二二六事件のことを本格的に調べてみようと思っている。

じいちゃんと呼んでいた野中四郎さん