都会のあちこち

タクシーから見る風景

 

しばらく前は、仕事も含めて街のことをずいぶん考えていた。街が好きだった。私にとっての街は、幼いころ死んだ父に連れられて行った浅草が、根底にある。あるいは、年末の御徒町、何を買うでもなく父と一緒に歩いた記憶がある。

次の記憶は、いきなり原宿になる。まだ、店がほとんどなかった竹下通り、ヴァンのビルがまだ、存在した青山あたり、初めてデートしたのも代々木公園だった。

そのあとは、いろんな街が点々と記憶に存在する。吉祥寺、下北沢、大学の頃は、良く自由が丘まで行っていた。レノンストリートというカフェで知り合いがアルバイトしていた。深夜の六本木(六本木ヒルズはなくハンバーガーインが営業していた)銀座、人形町、北千住、渋谷、新宿、街に行く目的は、最初のころは、買い物、歳をとるにしたがって飲酒になった。(仕事では街を感じることができない)

仕事がらみで丸の内仲通りのことを考えている。一時期、有楽町ビルに事務所があった。丸の内仲通りは、グローブトロッターの直営店、コムデギャルソンの店舗、さらにプロントが印象に残っているが、街としての「まとまり」の印象は薄い。

どの街も同質化が進んでいる。同じような店舗が、東京にはたくさんあり、どこにいってもビームスユナイテッドアローズ、ツゥモローランド、ポールスミスが必ずある。さらに最近では、エステネーションが軒を連ねている。どの店も同じような品ぞろえで、ポールスミスの小物を除いては、興味を引くものは、ない気がする。(私が年取ったからかもしれない)
かつては、ファッションがらみの集積に必ず拠点として存在したイッセイのグループは、めっきり数を減らした。

そのかわり、飲食は、たぶんバリエーションを広げているのだと思うが、グルメではないので興味はない。帝劇の地下にある立ち食いソバやを愛好しており、たぶん、徹夜明けの工事の人だと思う作業服姿の人が、朝、8時くらいからビールを飲んでいたのが、とてもうらやましかった。とくに雑誌に取り上げられ、急激に店舗数を増やして、瞬く間にすたれてしまう飲食店がとても多い気がする。アパレルと比較すると飲食店は、比較的単純な構造で、メニュー構成のマニュアル化ができさえすれば、店舗を増やすのが容易なせいだろう。

丸の内仲通りの商業集積は、類型化した街並みのある意味での典型だろう。

街を語る上で、植草甚一さんは、私に大きな影響を与えた。しばらく前の著作が、相次いで復刊されたが、もう書店でも見かけなくなってしまった。同じように街で良く出くわしたのが三島彰先生だ。いつも髭に和服を着ていた。機会があって食事を一緒にしたとき、五反田の商店街のはずれのてんぷらやさんで、天茶を食べた。味は忘れたが、商店街から少し外れた店においしいものが多い、と街の重要な見方を教えてくれた。植草仁一さんも三島先生もインサイドからアウトサイドにいたる文化の方向性を示していた。今はインサイドが拡大してしまい、アウトサイドすら、インサイドに内包されてしまっている。また、アウトサイドで出現した文化や、街の要素が、あっという間にインサイド化してしまいハゲタカたちに消費されてしまう。

たぶん、情報の流通量の拡大のせいだろう。使い捨てにされる情報、モノやことが、大量に吐き出され、使い捨てにされることを前提に作られたものが、クリエイティブの衣をまとって、次々出現する。三島彰先生や、植草甚一さんのような「クリニシェ」は、そうした事象の中で、存在意義を持たなくなっている。

丸の内に関しても、強固な存在意識を街が持つことはない。企業が派遣労働者を使い続けることで、個性や創造性を失うことと同様に、街が派遣消費者だけを相手にしていることで個性を失ってしまうことは当然の帰結だ。

ここで私は悩む。デュシャンは、こうした環境を予感して「レディメイド」を作ったのだろう。ただ、大ガラスは、結果的に「レディメイド」の進化の果てに宇宙が存在することを示唆した。宇宙は、個性の集合体としての汎用性を持っている。どうも時代は、レディメイドと広大な宇宙のほんの一時点だけを話題にすることに終始しており、「つながり」を拒絶しているようだ。これは、単なる歴史認識の問題(時間経過の問題)ではなく、事象のとらえ方の問題だろう。フィリップゴールドバーグは、直観によって全体像をどうとらえるか、を問題提起している。全体像という概念がない直観は、単なる破片に過ぎない。アーカイブという言葉に吐き気がする。

 

タクシーを運転しながら、考える。